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フィリピン、タイ、メキシコ、イタリア、沖縄。
各地の文化運動の実際にまなびながら、「流言飛語」生産のための
小さな技術の可能性をきりひらく。
電子化への序
森の印刷所
子ども百科のつくりかた
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本の野蛮状態のさきへ
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アジア演劇の練習
ふしぎな芝居を中国で見た
道化の解放
『西遊記』日記
演劇ぎらいの演劇
あとがき
初出一覧
私がマッキントッシュを使いはじめたのが一九八八年で、この本は一九八五年、その三年まえにだした。したがってこれは、私個人にとってはパーソナル・コンピューター以前の本ということになる。
そのまえからワープロ専用機は使っていたから、いちおう、ひろい意味でのデジタル文化の洗礼はうけていた。
でも、それはあくまでも実用のための道具という理解に片よったもので、たとえば一九七〇年代のはじめ、アラン・ケイやビル・アトキンソンやテッド・ネルソンといった連中がパーソナル・コンピューターにこめた夢などといったことがらについては、ほとんどなんの知識ももっていなかったように思う。
それどころか、かねがね私にはコンピューターへの漠然たる反感があって、この本を書いた時期にもそれがまだ完全には消えていなかった。したがって、ここでの「小さなメディア」という表現には、いわば「大きなメディア」の代表としてのコンピューターにたいする当時の私の批判的感情が、かなり色こく反映しているはずである。
その後、マッキントッシュの「ハイパーカード」を知ったことで、私の反コンピューター感情は急速に揺らぎはじめた。そして三年後、そのハイパーカード文化の流れのなかでボイジャーの「エキスパンドブック」と出会うころまでには、私のコンピューター観は大きく変わってしまっていた。
私が自分からコンピューターに近づいたのか、それともコンピューターのほうが次第に私に近づいてきたのか。
どちらといってもいいのだが、よく考えると、なにも理由がないのにきらいなものをすすんでうけいれるほど、私は寛容な人間ではない。だとしたら、やはり後者――当初、巨大システムとして構想されたコンピューターが、長い時間をかけて、ゆっくり私のほうに歩みよってきたのだと考えておくほうがいいのだろう。
パーソナル・コンピューター以前にだした『小さなメディアの必要』が、いま電子本として刊行される。この本を書いたころの私といまの私とのあいだには共通
する部分と共通しない部分がある。人間は変わる。でも、変われば変わるほど同じ、ともいえる。私としてはそれなりに複雑な気分なのである。
本書は一九八五年に晶文社から刊行された。元本はすでに絶版になっている。いったん活字本としては消えた本が電子本のかたちでどうよみがえるか。興味ぶかい実験の機会をあたえてくださった萩野正昭さんに感謝します。
津野 海太郎(つの・かいたろう)
1938年生まれ。小学生時代、ガリ版による新聞を発行して以来の机上パブリッシャー。出版社での単行本づくりだけでなく、雑誌、ミニコミ誌、DTP新聞などの編集にもたずさわってきた。現在季刊「本とコンピュータ」編集長。著書に『小さなメディアの必要』『歩く書物』『歩くひとりもの』『本とコンピューター』『本はどのように消えてゆくのか』など。
価 格: 小さなメディアの必要(950K) \840(税込)
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